ちいさな子どもの審美眼
息子はよく行くパン屋さんの店員さんから「葉っぱちゃん」と呼ばれていた。
外に出るといつも葉っぱを見つけ、それを放さない。
いつも葉っぱを持って来るものだから、「葉っぱちゃん」
名前を覚えてもらってからも葉っぱをいつも持って来るので、「今日はどんな葉っぱを持ってきた?」と聞かれるのがルーティンとなっている。
葉っぱが好きなのだが、息子にとってはなんでも良いというわけではないらしい。
感心するのは、形や色つや、厚みなど、とても美しい葉っぱを選んで持って来ることだ。
自分が持っている葉っぱより気に入った葉っぱを見つけると、迷うことなく持っていた葉っぱを手放し、より良い葉っぱを拾う。
こんな小さな子どもにも審美眼が備わっているのだなと感心する。
むしろ小さな子どもだからこそ、作られた価値基準に惑わされず、感覚的に素直にものを見て、選ぶことができるのかもしれない。
自分などはつい頭で考えてしまって、そのもの自体の良さに不感症になっているようだ。
そもそも、良い悪いというのは大人が頭で考え出した価値基準なのだと思う。
仕事柄つい洋服を良い悪いと頭で判断してしまう。
素材が良い、縫製が悪いなど。
理論的にあれこれ詰めて作ったとしても、最終的な判断は「かっこいいか」「かわいいか」なのに。
息子の持ってきた葉っぱを見てはっとさせられる。
美というものに対する人の感覚は本来は個々人の中にあるのではないか。
花を見て気持ちが明るくなったり、澄み渡った青空を見て気持ちよくなったり。
誰かに教えられたわけでもないのに、心が反応している。
本来それはあるものなのではないだろうか。
世の中の価値基準に振り回され、自分自身の審美眼を失ってしまった大人は私だけではないように思える。
もう一度取り戻したい。